敦賀ロータリークラブ
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例会の様子 第2427回 2006年11月8日

会長の時間

会長の時間

立冬が過ぎ、カニが解禁となり、あられが降って、今日は良いお天気で、まさに北陸の冬という感じだが、皆様にはお身体に十分気をつけていただきたい。

来る11月28日に、市民文化センターで福井県原子力平和利用協議会の主催による「2006年エネルギーフォーラムin敦賀」が開催される。福井RCの児嶋福井大学学長や河瀬市長等が発表されるので是非参加していただきたい。

さて、当RCでも12月6日に新しい役員が選出されるが、本日はロータリーの役員についてお話したい。役員には会長、幹事、S.A.A、会計があり、これらがロータリーという自治団体を管理する。会長は何をするかというと、日本国憲法で言うと天皇陛下に当たる。すなわちロータリーの象徴である。幹事は内閣総理大臣、S.A.Aは警察、会計は大蔵大臣といったところか。象徴というのは、帝王学で言えば、権化であり、仏教用語では化身のことである。したがって会長は、執行権限は何一つもっていない。

だからロータリーが光るのである。実権は内閣総理大臣に当たるクラブ幹事がすべて握っている。会長は、クラブ幹事とともにクラブの代表権者であるが、会長のそれは、法律的な意味の代表権ではない。ガバナー月信の名宛人になったり、国際ロータリーの窓口になったりする場合、また、他クラブとお付き合いする場合に、団体的な社会奉仕を実施する段階で地域に対してクラブの代表として振舞うのは構わないが、それらは法律的な代表権といえるものではない。

会長は何をするべきかといえば、例会でアドバルーンを上げて皆にやる気を起こさせることである。

クラブ管理の事務的な細かいことについて質問がきた場合には、幹事に任せればよい。 会長は、クラブ管理のすべてのことを知って、しかも知らない顔をしていなければならない。逆に幹事は、こと手続きに関しては知らないことでも知った顔をしていなければならない。また、会長は、理事会の議長であるが、理事会は多数決によって拘束されるため、建前上、議長としての役割しか果たし得ず、会長はロータリークラブでいえば帽子みたいなものであるというのが深川純一氏の話である。来週は幹事について、再来週はS.A.Aについてお話したい。

委員会報告

職業奉仕委員会

    

「私の職業奉仕」の原稿は,現在10名の方に提出いただいているが、未だの方もよろしくお願いしたい。締め切りは11月6日だったが、来週例会まで延長させて頂くのでご協力をお願いしたい。

幹事

    

1創立50周年記念ソングは、選考の結果,1位神谷氏2位私(刀根)であった。2曲それぞれに作曲してもらう予定をしている。

    

第2回目の家庭集会を11月中に実施し、クラブの理想像を探っていただきたい。

    

11月29日に敦賀西ロータリークラブと合同の夜間例会を開催するので参加願いたい。

    

12月6日の総会に先立ち、11月22日指名委員会を開いて新役員の指名を行っていただくこととする。

    


卓話「北前船の歴史と気比神宮の祭礼」

元会長 眞田辰男会員

  眞田辰男会員

元会長卓話ということで、私の住む相生町界隈の歴史と文化について話をさせていただく。ツルガは津ということで、古墳時代から日本と朝鮮半島の交通の要所として交流が盛んに行われていた。

三世紀には朝鮮任那の国の王子、都怒我阿羅斯等が渡来、四世紀には仲哀天皇、神功皇后が朝鮮新羅征伐に行ったことが古事記や日本書紀に記されている。

敦賀港は中世から近世にかけても日本の玄関口ということで栄えた。鎌倉時代には、官物、年貢、公事を運ぶ集積地として大きな役割があった。江戸時代初期は最も栄えた時期である。あみやさんは今15代目であるが当時北前船の船首として活躍していた。江戸時代の敦賀の町は、笙ノ川から児屋ノ川までが中心であった。36の町から成り、港に向けて縦筋の町並みであった。その当時の敦賀の町の繁栄ぶりは大阪の商人であり文豪でもあった井原西鶴の「日本永代蔵」にも書かれている。博物館通りが一番栄えた。行き交う人の袖がちぎれるほどであったとまで言われている。気比宮は今の気比神宮と関係が深いが北陸随一の総鎮守府であった。9月の2日は宵宮、3日は神幸祭、4日は本祭で3日間、町をあげての盛大な祭であった。4日の本祭に出る山車は北前船が敦賀港に出入りしていた頃は30数基あったのが、明治初期には12基となり、今は6基となっている。

戦災で、気比神宮の境内にあった蔵が焼けて3基だけが残った。戦後忘れられていたが、何とか山車を戦前並にしたいということで始まったのが、平成6年に3基の山車の台車が博物館にしまわれていたのが見つかり、山車保存会で復元をして6基にした。敦賀の曳き山車は歴史が深く、京都に次いで室町時代から続いていたと記録されている。また、敦賀の曳き山車は、元来、非常に立派なものであった。

相生町のもう一つの古い歴史では、晴明神社というのがあり、今から千年ほど前、990年代に造られた。安倍晴明がこの地に5年間住んでいたということである。安倍晴明は平安京の陰陽師、今の占い師みたいなものであるが、宮廷の中にいて占い事、予見をしていた人物である。安倍晴明が相生町に住んでいたということで、千年経って見直され、若い人たちにも有名であり、何とか晴明にあやかって人集めをしようとJRの直流化にあわせてアピ−ルしていこうということをやっている。なんと言っても歴史に基づいたものは非常に人気があり、多くの人が興味を持っている。神社はこれまで見向きもされなかったが、今では年間2万人の人が訪れ繁栄しているという状況である。

     

もう一つは、晴明地区には、大正4年に清水友吉という人が、朝市場を作るため、私財を投げ打って敦賀郡に寄付した。当時、農産物を作っても売る場所がなかったので、何とか公設で市場を造って売ったらどうかということであった。

この市場は戦前まで続いたが終戦とともになくなってしまった。今から5、6年前に、相生町では、これを何とか復活させようと、月1回ではあるが、第三日曜日に数千名の人に来ていただいて、客との対話のできる市場ということでPRをしてきた。もう一つは西町の恵比寿大黒の綱引きで、400年の歴史がある。ここは商人の町でかまぼこ屋さんが何軒かあった。水産市場もあった。恵比寿(漁業)が勝つか、大黒(農業)が勝つか、恵比寿側が勝てば大漁、大黒側が勝てば豊作ということで、大きく太い綱引きを1月15日の小正月にやって、その年を占おうというものである。1月の第3日曜日ということにはなったが、今も続いている行事で、国の無形文化財にも指定されている。数十軒あった家が今では5,6軒にまで減少し継続するのが難しくなってきているが、是非子供達に伝承していきたいと、各学校や教育委員会に働きかけている。




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